ななこの話

3.11を経験してすぐ上京した私が、東京で大人になり当時を振り返った話


こんにちは。

昨日で東日本大震災から9年でしたね。
ブログを読んでくださる方はご存知の方も多いと思いますが、私は宮城県仙台市出身です。

そして1992年生まれなので、3.11の年に高校を卒業しています。
上京もこの年だったのでもう東京で暮らして9年かぁと思い出す日でもあります。

離れていると、見えなくなってしまうことがたくさんあります。
だからこの日は、色んなことをちゃんと思い出す日にしています。

震災直後に上京したこともあり、一人でものを考えている時間が膨大にありました。
子供から大人になっていく期間なこともあり、意識せずとも人生観に大きな影響が与えられたと思います。

早いもので9年経ちましたが、上京したときのことは今でも鮮明に覚えています。

私は震災の10日後に、一人で東京の家に行かなければなりませんでした。

仙台から新幹線は通っていなかったし、仙台⇔東京の高速バスももう予約が取れませんでした。
そのため、夜行バスで新潟に行き、新幹線に乗り換えて東京に向かいました。

出発時は、やっと避難していた小学校から戻れたくらいで家もぐちゃぐちゃなままだったことを覚えています。
食品や日用品も手に入るか分からなかったし、地震や津波がまた来たらどうしようと不安でたまらない状況でした。

そんな中、仙台の人たちに背を向けて出発することがとても苦しく申し訳ない気持ちでいっぱいでした。

夜中の仙台駅で泣きながらお父さんとお母さんに見送られてバスに乗った事を思い出すと今でも涙が出ます。

あんなに心細くて不安な気持ちは二度とないと思います。
悲しいとはまた別な気持ちでした。
頭の中でもしもの事ばかりがぐるぐるしていて、永遠に会えなかったらどうしようということばかり考えてしまいました。

そんな環境での出発だったので、東京に着き大きなショックを受けました。
山手線で上野から高田馬場に移動している最中、あまりにも『普通』の状況を茫然と見ていたことを思い出します。
それと同時に、誰に責められた訳でもありませんがごめんなさいと思いました。
皆さんそれぞれ感じることがあったと思います。

震災のことを話すのはどうかなぁとも思ったのですが、自分がどう生きるかをたくさん考えましたし、今、大人になったからこそ言えることもできました。
震災があって、その後の生き方にも大きな影響があったため振り返る意味も込めて書いてみます。

上京したての頃、出身を聞かれることが多くて、仙台だと言うと相手は大抵ギョッとなり心配をしてくれました。
そして、ちょっと腫れ物に触るような気まずそうな感じだったのを覚えています。

私は津波の被害もなく無事だったため複雑な心境でした。
心配してくれた方にも、大変な思いをした方々にも申し訳ない感じがしました。
そのため、なるべく明るく振る舞いました。
私なんかが大変だったとか、怖かったとかとても言えないと思ったからです。
同じ年に東北から上京した人たちは何となく分かるのではないでしょうか。

そして、少し時間がたち地元にいた人たちは復興に向けての活動やボランティアなど精力的に頑張っていていました。

被災したときとはまた別の現実に直面し、大変な労力か必要だったろうと思います。
力を合わせてみんなで一緒に立て直そうという気持ちが、とても大きくなっていたように感じました。

一方で、関東は計画停電などもありながらも普通の生活ができていました。
あの頃、何というか気持ちのギャップがすごかったんです。
世間の自粛モードや復興に向けて団結し合っている地元に対する申し訳なさと、東京を何やかんや楽しんでしまっている自分とがいました。
目を背けてしまっていた自分もいたと思います。

そんな時には、あんなに大変だったのに、私はなんて薄情ものなんだろうかと思ったものです。
田舎から都会へ来て触れるもの目に入るものみな新しいものばかりで、ふと気が付けば悠々自適な生活を送っている現実が心苦しく、しばらく罪悪感がつきまといました。
こうやって忘れないように振り返るのも、その時の罪の意識があるためではないでしょうか。
見えないということは怖いことでした。

そんな背景があり、今思えば取り憑かれたように『何かやらなきゃ』と必死に考えていた気がします。
頑張っていなくちゃいけないとか、立派に生きなきゃいけないとかです。
どうにかして『起きたこと』が無意味にならないように何をしていけばいいかとか、どんな考え方をすれば良いのかを探していたように思います。

大人になった今となってはそんなものは一生を終えるときに分かるのだと思いますが、18歳の私は『自分の生きる意味』とはいったい何だろうかとあがいていました。

きっと明確な答えなんかなくて、壮大な意味もないのではないかと現在の私は思います。
しかし、当時は生かされた自分に対してどうしても意味付けをしたかったのです。
そこにいる理由が欲しかったんだと思います。

正解なんかないけれど被災地と都会のギャップに葛藤しながら、絞り出した答えのようなものがあります。

それは、もし、起きた事が無意味にならないようにするには、答えが出なくても常に自分の人生に問い続けることが大切だということです。

私はどうして地元から上京をしたのか。
人のために何ができるだろうか。
無念の人たちに恥ずかしくないように、幸せに生きるために何ができるのだろうか。
地元で暮らす人たちに対する罪悪感がああるのなら、私は東京でいったい何ができるのか。

そういった問いをしていけば、自分の人生に意味付けができるのかなと思ったのです。

あの頃何となく宙ぶらりんのようだった私が、見えなくて忘れていくことへの罪悪感を打ち消すために葛藤して得たものが、そういった答えのないものに向き合い前向きに物事を捉えるかということです。

私の葛藤なんてミジンコみたいなものだと思いますが、その時の考えるクセみたいなものが現在の活動にプラスになっています。
生きているとしばしば辛いことが起きまますが、たとえ落ち込んだとしても、どうにかこうにか最後に起き上がれるのはこの経験があったことも1つだと思います。

自分自身の心の声に耳を傾けて、何をやりたいのか、どうしたいのか、どんな人生にしていきたいのか、今でも気付いたときに自分に問いかけるようにしています。

好きなことが変わらないよねとか、ブレないよねと言っていただくことがありますが、自分に問いかけながら軌道修正しているからだと思います。
もちろん、間違いや失敗もします。
その度にこのできごと無駄にしないように、プラスに持っていくにはどう考えたらいいのかと自分と対話します。

震災が起こる前から、私はものを考えていることを好み、自分自身と向き合うことは多くやっていましたが、震災後はその傾向がより大きくなったと思います。

私の拙い文章力では安っぽい感じになると思うので、生き死にについては語ること控えた方がいいのかもしれませんが、このような機会しかないと思ったので私の考えを書きます。

一つ言うなら、今生きていることが全てということです。

人生何が起こるか分からない、いつ死ぬか分からないという事を同時に多くの人が突きつけられた日だったと思います。
時間が経つと、そういう大切な事を忘れて時間を過ごしてしまいます。

そして、見えないものは自分には関係ないこととなっていきます。
忘れてしまわないように、ときどきちゃんと思い出して生かされていることに感謝して生きていかないとなぁと思います。

最近、ありがたいことに行動力だったり挑戦について優しい言葉をかけていただくことが増えました。
どうしてそんなに行動できるの?といった質問を受けることがあるのですが、極論を言ってしまえば人間いつ死ぬか分からないからです。

私は後悔をなるべく少なく生きていたいと思っています。
後悔をしないことは無理だと思いますが、減らすことはでると思うんですよ。
後悔を減らすためには考えて考えて考えて、さらによく考えることと、やりたいことはやってみることだと思っています。

私にできることなんて微々たるものだし、世界を変えることなんてことは到底できません。
自分の無力さはずっと前から知っています。

だからせめて、自分の人生に感謝をして幸せに真っ当に生きていくことくらいはしていきたいです。
そして、もしできることなら周りの人にちょっとでも喜んでもらったり、笑顔になってもらえるように生きていけたらいいなと思います。

長い文章読んで下さりありがとうございました!
大変なときですが、健康第一で乗り越えましょう!

使用している写真は、東日本大震災で大きな被害を受けた宮城県名取市閖上地区を撮影したものです。
幼少期から家族での釣りや朝市、花火大会などで慣れ親しんだまちです。
まちごと流されましたが、地元の事業者やまちを愛する方々とで商業の再建を行っており、閖上朝市なども再開して帰省したときにまた家族でこれてとても嬉しかったです。
かわまちてらす閖上
また、みなさんよくご存知の『君の名は。』の起点となったまちでもあります。
こちらが詳しい記事です。

宮城県は海も山もあり、食べ物もとても美味しいです。
日本酒など地酒もとても美味しいし、竹鶴でお馴染みの宮城峡蒸留所もあります。
日本三景の松島や、秋保や蔵王など温泉もあります。
牛タン、すんだ、笹かまぼこ、牡蠣、ホヤ、はらこ飯・・・
どれだけ食べてもゼロカロリーです。
ぜひたくさんおいしいものを食べに、宮城県にお越しください!!